저자 : 上田岳弘
출판 : 講談社
출간 : 2021.02.05
새로운 도전이었다.
갑작스레 하루에 두 번이나 툭 튀어나온 '니므롯'이라는 단어에 꽂혔다. 마침 다니던 도서관에 '니므롯'을 검색하자 바로 대출가능 도서가 떴는데, 그때까지만 해도 나는 이 책이 국내에 미번역된 원서라는 걸 모르고 있었다.
신나게 달려가 대출을 하고 나서야 알게 된 것이다. <ニムロッド>의 한국어판은 없다는 것을.
이후 고민을 거듭하던 끝에, 일단 한 번 도전은 해보기로 했고 그런대로 만족스럽게 완독할 수 있었다.
한국에서는 '니므롯'으로 읽는 것 같은데 본문 내용을 확인하면 영어식 발음대로 '님로드'라고 읽어야 할 것 같다. 등장인물의 이메일 주소를 통해 표기된 바도 nimrod이고, 그렇게 읽을 때 "僕はニムロッド、人間の王。"라는 문장의 매력이 살아난다. 님로드, '인간의 왕', にんげんの ロード.
장르문학보다는 순수문학에 가까운데, 개인적으로는 무척 취향이었다.
<님로드>는 현실과 컴퓨터 서버를 통해 구현되는 숫자의 세계, 그리고 활자의 세계를 중첩시켜 가며 매력적인 이미지를 보여준다. 이 세 세계를 하나로 표상하는 인물은 '나카모토 사토시'다. 그는 서버 관리자이자 비트코인을 채굴하는 채굴과 과장이며, 숫자의 세계를 상징하는 다쿠보 노리코와 활자의 세계를 상징하는 님로드를 연결 짓는 연결고리다. 그를 통해서만 연결될 수 있는 노리코와 님로드는 또 하나의 삼위일체를 보여준다.
저자는 일부러 실제 비트코인을 창시한 허상의 인물 '나카모토 사토시'의 이름을 차용해 등장인물의 이름으로 사용했다. 본문 내에서도 이 부분을 하나의 설정으로 언급하지만, 개인적으로는 이 인물이 갖는 허상성 자체를 '인간화'시킨 것이 등장인물이라고 본다. 즉, <님로드>는 애초에 '현실'이라는 것이 과연 존재하는가라는 거대한 질문인 것이다.
아무 이유 없이 흐르는 눈물.
그것은 사토시에게는 왼쪽 눈, 님로드에게는 오른쪽 눈이다.
우리는 신의 한쪽 얼굴 밖에 볼 수 없다.
그럼에도 그 모두를 보고자 하는 욕망-
그것이 수없는 '날지 못하는 비행기'를 만들어낸다.
바벨탑이 되어 하늘을 찌른다.
결코 채워지지 못할 욕망은 그 한계에 달했을 때 스스로를 잠식하는가?
그렇지 않다면 욕망은 언제나 순수하게 그 자체로 존재하며 -동방양상으로서- 그것에 달려들어 스스로를 불태우는 것이 인간인가?
무욕의 세계에서 인간은 더 이상 '인간'이 아니게 되는가?
인간의 왕, 님로드.
그의 이야기를 통해 과연 인간의 본질이란 무엇인가를 훔쳐보는 느낌을 느낄 수 있다.
그리고 성경 속의, 혹은 신화 속의 이야기라고만 생각하던 그것이 기실 현실과 그리 다르지 않음을 사토시를 통해 겹쳐 볼 수 있다.
그 사이로 어렴풋이 드리워지는, 그 수없이 오가는 숫자가 가지는 가치가 과연 유의미한가를 묻는 노리코가 있다.
그렇다.
"그저, 있다."
행복하게 읽었다.
읽을 수 있었음에 감사하며.
- 言われるまでもなくとりあえず再起動だ。 原因は不明でも、それだけで機能自体は復旧 することが多い。 問い合わせのあった顧客は二十人ほどの規模の会社で、窓口の担当者は うるさいことを言わない人だった。だからきっと、復旧しさえすれば大丈夫だろう。 顧客 によっては、些細な不具合についても徹底的な原因究明と再発防止策の提示を求められる ことがある。
- 僕がいつも感心してしまうのはね、合理的に考えてまったく駄目なのに、「いや、いけ るかもしれない」というチャレンジ精神によって、「駄目な飛行機」が生み出されている ことなんだ。実際、原子力潜水艦はうまくいったわけで、今も主要な戦力だよね。 半ば永 久機関ともいえる原子力と、ずっと潜っていなければならない潜水艦。いかにもベスト マッチだよね。でもさ、飛行機というものは、そもそもずっと飛んでいる必要があるんだ ろうか? 僕なんかは疑問に思うね。 確かに、魚はずっと海の中にいる必要があるよ。 で も鳥はずっと空を飛んでいるわけじゃない。 渡り鳥だって水面で休む。それが普通だ。
- それでも、普通を是認していればいいっていうのもなんだか気に入らない。そもそもヒ トが、この僕たちホモ・サピエンスがだよ、空を飛ぼうっていうこと自体不自然極まりな いじゃないか。 そうだろ? そんなこと、昔の人に言ったら気が違っているとしか思われ ないだろうね。 でも僕たちは果敢に挑戦して、気違い沙汰を普通にしてきたんだ。 原子力 を動力にして永久に飛ぼうとしたのもね、ちょっと行き過ぎただけでさ。 その心意気は間 違っちゃいない。被曝して亡くなった乗組員はかわいそうだけど、それも尊い犠牲という ものなのだろう。僕はそんな風に思う。
ねえ、中本さんはどう思う?
ニムロッド
- 金を掘れ、という話の詳細を聞くと、
「ビットコインだよ」と簡潔に返事があった。
「ビットコイン?」
「ん、中本さん、知らない? ようは仮想通貨だよ」
「仮想通貨?」
- でも本家のカモメはさ、あれは生き物だ からね。風を浴びて飛びながら、気ままに重心を変えている。経験則による制御ありき で、カモメは飛んでいるんだ。
- 自然のものを模す場合は、それそのものの性質や構造の根本を理解して、必要な部分だ けをうまく抜き出してやらなきゃね。翼だけを律儀にトレースしたってさ、鳥と同じよう には飛べないよ。 開発者のボニーさんは曲芸飛行には長けていたのかもしれないけど、そ れで鳥の飛行法を完璧に真似られるわけではない。飛行家としての経験と我流の鳥類研究 で、鳥の本質を理解したと思い込んだのが間違いの源だった。初飛行で帰らぬ人となったのは残念なことだけど、それも尊い犠牲の一つだ。
- そもそも社長がビットコインの採掘に手を出すことにしたのは、顧客への貸し出 し用に用意しているサーバーのうち、契約がつかず遊んでいるものの有効活用を目論んで のことだと聞かされている。
- 要は、誰がいくら保 有しているかが書いてあるだけなのだけど、その状態を存在すると皆で合意すれば、ビッ トコインは確かに存在するということになる。
- と、角度を九十度まで変更することができるコックピットが付いているんだ。幾何学的な 形状の遊具から鳥が顔を突き出しているみたいで、全く飛行機らしくない外見をしてい る。普通の飛行機はさ、滑走路を助走して斜めに離陸するよね。この「スネクマ C450コ レオプテール」は、設計思想からして斬新だ。円筒の最下部から真下にジェット噴射して 離陸し、その後上空で横倒しになってから水平飛行する寸法なんだよ。うまくいけば滑走 路の必要がなくなって、普通の船の上から飛び立つなんてことも可能になるかもしれな い。けれど、一つの動力だけで安定的に垂直浮上するのってとても難しいんだ。おまけ に、真上を向いて飛んでいるものの角度を空中で変えるなんて、素人目にも離れ業だよ ね。
- 近頃で垂直に飛び立つ機と言えば、君も「オスプレイ」のことがすぐに思い浮かんだん じゃないかな。 事故率の高さが問題になって、沖縄の米軍基地に配備される時に大騒動が 起きたあれだよ。
- それでもオスプレイの場合は、推進動力が左右二系統ある。さらに、ジェットエンジン ではなくてプロペラ動力で浮くわけだからね。それでも安定性に疑問が残るんだから、 「スネクマ C.450 コレオプテール」で実現しようとした目論見なんてどだい無茶なんだよ。 駄目っぷりについては、前回紹介した「ボニーガル」と好対照だといえるかもしれな い。 あちらは自然を模そうとして失敗した。 こちらは自然に真っ向から対立しようとして失敗した。 何事もバランスが大切、ということだよね。
ねぇ、中本さん、僕らも普段から留意すべきことだと思わないかい?
ニムロッド
- H-11-1からH-11-3。ビットコインを採掘しているサーバーたち。 ところどころ 小さな灯りの点る機械が整然とラックに並ぶさまは、昔の人が見れば、宗教施設の一部だ とでも思うだろうか。それも何かとても重要な役割を担った不思議な道具をまつったもの だと映るかもしれない。僕はその道具を使って、仮想通貨を掘っているのだ。サーバール ームの隅にある採掘中の筐体を思い描きながら、そこに繋がるドアを開けた。 いつも通り マシンの駆動音が耳を刺す。
- ねえ、中本さん、僕は思うんだけど、駄目な飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛 行機が今あるんだね。でも、もし、駄目な飛行機が造られるまでもなく、駄目じゃない飛 行機が造られたのだとしたら、彼らは必要なかったということになるのかな?
- ニムロッドが作家を目指していて、新人賞の最終選考に三回連続で残っては落選してい ることも、本人から聞いて知っている。傍目から判断できることではないけど、そうした ことが心理的なダメージになっていたりもしたのか。 最後に落選したのは鬱になる一年前 のことで、それが特に大きな打撃になったのは間違いないと思う。 一緒に飲む度、彼は自 らの有りあまる才能について面白おかしく語るのが常だったのに、最後の落選以降、小説や才能といったことについてまったく話さなくなった。こないだの「駄目な飛行機コレク ション」のメールで知らされるまで、僕は彼が新しい小説を執筆していることも知らな かった。
- 彼女は僕以外の別の男にもこの話を したことがある。なぜだか僕はそう直感した。きっとこれは彼女にとって、一種の通過儀 礼のようなものなのだ。 僕がまた会ってもいい相手かどうかを判断するための。
- 一年前の今と同じ春の夜で、 彼女の前には桜色のフローズンカクテルが置かれていた。 彼女と並んで座ると、窓から夕 闇の中に広がる庭園が見渡せた。 僕が頼んだ酒は、多分いつも通りギムレットかジント ニックのどちらかだったはずだ。
- ニムロッドが鬱になって会社に来なくなり、さらに名古屋に移って東京で会うこともな くなってしまった後で、僕は再び御茶ノ水のパブに通うようになった。その店には、 田久 保紀子とも既に何度か行っている。 田久保紀子が初めて入店した日は、自然とニムロッド の話が出た。 社会人になった後でできた唯一の友達が名古屋に行ってしまった、と。 彼女 はわりあいに面白がってニムロッドの話を聞いていた。一緒に酒を飲みながらニムロッド が小説を書き、僕は仕事をしていたこと。映画の趣味が似ていたこと。ニムロッドの小説 を読んだことはないが、そこには僕との会話がそのまま台詞に書いてあるらしいこと。そ れから、僕の癖、というか謎の症状について作品のモチーフにしてもよいか尋ねられたこ。
「謎の症状?」
「つまりは今みたいな感じ」
ああ、と彼女は呟き、ドライマティーニのグラスを丸テーブルに置いた。唇にカクテル が残って、少し濡れているように見える。 伏し目がちの目は僕の顔、より厳密に限定して いえば僕の左目を注視している。
- ぽたぽたと流れる、水みたいな涙。別に悲しいわけでも、感動しているわけでもない。
前に舐めてみたことがあるけど、塩気はほとんどなかった。ある日突然始まった僕のこの 症状をニムロッドは相当面白がって、小説のモチーフにしたいと言っていた。本当に書い たのかどうかは知らないのだけれど。
「決まって左目なのね? 右目であることはないの?」
ニムロッドとまったく同じことを彼女が聞いた。
「いつも左。右はない」
- さっきはどうしたの?と聞くのも野暮な気がして、とりあえず コーヒー買ってくるよと言い残し、僕はレジカウンターに向かった。カフェミストのトー ルサイズを買って席に戻ると、彼女は気恥ずかし気に「ごめんね、仕事大丈夫だった?」 と訊ねてくる。
- 雲を突き破ってそびえる巨大な塔。 それは子供の頃からいつも僕の頭の片隅にあった。 僕は視界そのものになってそれを見ている。そこには誰もいない。人間だけじゃない、あ らゆる生き物がそこにはいない。古びた憧れがそのまま化石になったみたいにそびえる荘 厳な塔。その背後には遠くに海が見えて、塔の中腹には雲が漂っている。
- 空港での挙動不審が嘘みたいに、ヒルトン成田の暗い部屋の中で田久保紀子は堂々とし ている。仮想通貨ではなくて株式、つまりは会社の価値を売り買いする利ザヤで稼い だ金で、自分のいる場所と時間を買う。僕は買われたわけではないけれど、おそらくは彼 女が買ったものの付属物みたいなものだ。
「もし今思っていることが全部叶うのだとしたら、こんなに悲しいことはないのかなと思 う。いや悲しくはないのかな。むしろ嬉しいのかな。 これ以上もう年を取りたくないし、 働きたくもない。死んでしまいたくはないし、生きていきたくもない。たまに消えてしま いたくなるけど、同じくらいたまに刺激が欲しい。そんななんやかやがいつか叶うとし」
- 「夢みたいだね」
- 「その夢みたいなことがいつか叶うとして、それが幸福なのかどうか私にはわからない。 年を取るのも悪くないとか言いながら、自然に朽ちていく。そんな、今の現実のありよう を事後肯定するものばかりがあふれてて」
- 「そんなもの認めない て抗弁できないのは、結局のところ軍事力があるからってだけの 話なのは今も変わらないよ。 それに比べるとさ、取引履歴を記載し続けて、価値があるっ て言い続けるなんて、ずいぶん紳士的だと思わないか? ドルは紙切れとコイン、それか 武器でできている。 仮想通貨はソースコードと哲学でできている」
- 「コンピュ ーターに電力を送り続け、帳簿を書き続けることで、ビットコインの存在が証明される。 書いているのは単なる取引履歴だけど、 実際にそれで価値が生み出され、日本円やドルに もなる。つまり、資金となって人や世の中を動かすことができる。 僕は思うんだが、そ れって小説みたいじゃないか。僕たちがここにこうして、ちゃんと存在することを担保す るために我々は言葉の並べ替えを続ける。 意識や思考もまた脳を駆け巡る電波信号に過ぎ ず、通り過ぎてしまえばそれがあったこと自体が夢か幻みたいだ。世界中にいる無数の名 無したちの手が伸びてくるから成り立っている。 その手がなくなってしまえば、君が掘り 出した大切な変則Bは君の手元から真っ逆さまに、どこまでも下に落ちていく――」
- かたかたかたと、キーボードの音が世界中に響いている。世界中のプログラマーが正し いコードを求めてキーボードを叩く。ずっとそれについて計算させておけばよい、完全な プログラムを作り出そうとしているのだ。 あらゆるマシンのリソースをすべて注ぎ込ん で、それを稼働させているだけで、人類の価値が担保され得る。ただそのプログラムをど れだけ効率的に稼働させるのか、人間はおおむねそれだけを考えればよい。 後のことは、 誰かがやってくれる。人間は人間にできることだけに集中すればいい。例えば、塔を造る こととか。
- 一つには地球の人口が、 ブルジュ・ハリファの建った頃よりもはるかに増えている事実 がある。僕の持論だが、 人類の建て得る塔の高さは地球上の人口に比例する。人口を支え るだけの技術革新が、そのまま高くそびえる塔を支えるのだ。地球人口が百二十億人を超 えたあたりから、先進国に限らずどの国でも出生率は目に見えて低下してはいる。だが、 生物の寿命を司るシステムが解明された結果、富裕層では《寿命の廃止》技術を自身に施 すものが増え、ここ最近では減少分と増加分の調和がとれている。 《寿命の廃止》を受け た人々は、自虐の気持ちがあるのだろう、自分たちを「最後の人間」と呼んでいるそう だ。
- もう一つには、情報技術の発展という要素があった。これは、その塔を僕の塔にするた めの要素だ。塔は世界の中心に建つものだ。何らかの視点によって切り取られた、限定的 な世界の中心に塔は建つ。あらゆるものを情報化してきた社会において、中心か否かに地 理上の位置は関係ない。 情報として、すべてのものが並列に並ぶ中で、それでもそれを選 ぶのだという執着心が情報的重力を生む。「最後の人間」の割合が増えるほどに、執着心 が薄まっていく社会の中では、誰より強く何かを求め、執着できるかどうかが肝要なの だ。その感情の理由は誰にも共感されないものであればあるほど良い。なぜなら、理由の ある感情はたちどころに解析されて、 その他の情報と並列されてしまうからだ。 まるでス ーパーマーケットに整然と並ぶ、 パッケージされた商品みたいに。
- 僕は誰よりも僕の塔に執着できている。
だからこそ、 塔の建築を指揮する僕はこう名乗る資格がある。
僕はニムロッド、人間の王。
- 「でも、そのコードを犯さない限りは、多様性は大事だからと優しく認めてもらえる。それ で、コードを犯せば、足切りにあって締め出される。収入が足りないとか、TOEICの 点数が足りないとか。 例えばシンガポールではね、月収や学歴が基準を満たしていない と、就労ビザが下りない。能力が足りない人をそもそも締め出している。国家ぐるみで。 たかだか人口六百万に満たない都市国家の話だからいいかもしれないけど、世界全体がそ んな風に締め出しを始めたら、行く場所がなくなる人が続出するかもしれない」
- ニムロッドが書いた小説は、純文学の新人賞の最終候補に三度残って、結果としてはす べて落ちた。いい線までいったのだから続ければいい。 端から見ればそう思うが、本人の 中ではもう終わったことなんだろう。
- これから書くものは賞に応募しない。 誰かに読ませようと思って書かない。 名古屋で 会った時、ニムロッドはそう言っていた。一つの小説が世の中に存在するためだけに行わ れる、シンプルな行為。今はそういうことにしか興味を持てない心境なのだ、と。 その文 章が評価を受けて「芸術としての価値」を纏うことも、誰かを感動させて 「読者の魂を救 う」ことも、そうした可能性は予め捨て去られている。ただそこにごろりと文章がある。 サリンジャーだよ、とニムロッドは僕の疑念を断ち切るように言った。
- 見聞きした情報がどた混ぜになって浮かんでくる。なんでも Wikipediaで調べるの が癖になっているのがよくないのかもしれない。どのみちそこにたいていのことは書いて あるんだから、わざわざ僕の脳内に残しておく必要はないだろうと思ってしまう。 27クラ ブのことも、サリンジャーの作品や人間性も、Wikipedia にしっかり書かれてあって、誰かが覚えてくれている。 だから、僕はそれ以外の、例えば田久保紀子が抱いている心情 や、ニムロッドが小説を書く動機なんかを考えることに脳を使うべきなんだろう。 才 能がない? 才能が足りない? 努力が足りない? そうかもしれない。でも僕は僕なり に精一杯やったんだ。 わかりやすい不幸があればまだいい。だが、僕にはそんなものも与 えられていなかった。 僕にできるのは、ただ敗北を認めることだけだ。
- 二粒の白い錠剤克服可能なトラウマを抱えた、けれど本質的な強度を備えた女性。 田久保紀子。不器用 で貧乏であるために、世の中に振り回されて日常生活の些細な達成に喜びを見出すしかな い人々とは一線を引いている。 でも無神経ではない。
- 以前、一世を風靡したテレビタレントが、地下の駐車場にフェ ラーリを集めているのを映像資料で見たことがある。欲しいものを集めきった後で、彼が さらに何を欲しがったのか、欲しがることができたのかはわからない。しかし、僕に関し て言えば、買いたいものは既に見つかっている。
- 月のない夜、客人はいつも通り、十八時きっかりにやって来る。 僕の待っていた客に とって、僕こそが客であり、それも最上の顧客であることは間違いない。なにせ僕は欲し いものを手に入れるのに、文字通り金に糸目を付けないし、その必要もないからだ。
- 「いいじゃない、別に、どういう風に想像したって。どうせもうほとんどの人はこの世界がどうやって運営されているのかなんて、知らないし興味だってないんだから。誰かとても頭の良い人が仕組みを作ってくれて、それにのっかっていればいいんだっていうのが経 験則。それ以上のことを考えるのには一つ一つのパーツが難しくなりすぎてる。どんどん 岩が重くなっていって、それを一ミリでも前に進めることができるのは、ほんの一握りの 人だけ。 それだって、どこかむなしさの中でやっているように見える」
「何の話?」
「わかんない。世界の話? 空気の話? そういうものに鈍感になっていって、 『自然』 に従いつつ、そこに滋味みたいなものを見出すのが大人になるってことなのかもしれない けど、それって現状の肯定に過ぎないような気がする。 最先端のことを研究している人 も、これ以上進んでいいのかどうか、首を傾げながらやっているんじゃないかな。何と言 うか、全体的な不快感だけが漂っている」
- 付き 合った人数を数えるような歳でもないけれど、 彼女たちの肌は確実に僕に喜びを与えてく れたが、果たして僕は彼女らに何らかの見返りを与えることができていたのだろうか。動 物的な、根源的な自然に則した何か。そんなことを考えるのはきっと「自然」という言葉 に反応したからだ。 意思とはまた別に抗い難い流れがあって、人間の意思でやったとされことも、人間も所詮は自然の一部だから、より大きな枠組みでは、やはりそれに従って いるだけなのか。
- もっ と日常的なこと、例えば職場でのストレスや、これまでの異性関係、家族のこと、そう いったものを話すことの方が現実に即して、 真実味があって、ニュースで起こっている動 きは自分には関与しようのない、興味をもってその渦中にいるかのように話すのは、薄ら 寒いこと。終わらない日常に耐えるのが、現代人として正しい生き方であり、態度であ る。それがなんとなくコンセンサスだったような気がするが、それがそうでもなくな きたように感じる。そういった大きなものの渦中に確かに僕たちはダイレクトに含まれてベーストいて、当事者として語らなければならないような気がしてきている。
- 僕の思考なんて誰も興味ないかもしれないけど、 わずかな現象が静かに連鎖していって、 大きな変調を起こすことだってあるかもしれない。 僕の思考を見た人が、かすかな影響を 受けて書いたものに影響を受けて書いたものを見てその人が―――つまりは、バタフライ効 果。
- サトシ、サトシ、こないだのセックスの最中、田久保紀子が僕を呼ぶたびに僕の頭には ビットコインが浮かんだ。 1satoshi は、ビットコイン0・ 01枚分の価値 がある。 僕は毎日何万もの satoshi を掘り出している。なんだか自分自身が無から湧いて 出てくるようで、そういえば僕はどんなふうにこの世界に出てきたんだっけ? もちろん 両親の性行為によって、卵子と精子が結合し、母の胎内で約十ヵ月過ごしてから出てきた のだ、さらに元を辿れば、精子は毎日一億匹ほど作られて、ひと月以内には体外に放出さ れて死んでいくから、それまではまったく存在しないわけだし、卵子の方は母体が幼いこ ろから体の中にあるとはいえ、母体が卵子を作り出すまではやはり存在しなかった。元は と言えば外部から摂取した食べ物が、遺伝子に書き込まれたコードに則って卵細胞として、あるいは精子として形成され、性行為によって結合し、そして胎児になって出産され satoshi となる。そんな風にして無から satoshi は作られる。しかしそんな satoshiづくりも 見方を変えれば生体を使った採掘なのかもしれず、 そうして生み出された satoshi である ところの僕が、彼女の後頭部がヘッドボードの角に当たらないように抱えて実らないこと が前提の生殖行為に励んでいる。 satoshi, satoshi, satoshi‥. ・・・、それは彼女が僕の名前を呼 んでいるのか、生み出されることのない拒絶された satoshiを呼んでいるのか、とめどな い性行為の果てに、何もないところから satoshi が採掘され続ける。そうして無数の satoshi の一人になってしまった僕は、一体何と呼ばれるべきだろう?
- 最後の商人を名乗るソレルド・ヤッキ・ボーは、《寿命の廃止》を受けた「最後の人間」 の一人である。しかし、もう「最後の人間」など珍しい存在ではなくなっている。 僕が塔 を建て始めた頃は全体の七%程度だった全人口における比率は、既に五十%を超えている のだ。最初富裕層にしか適用できなかったその技術の普及速度は、ある時を境に急激にあ がった。最後の人間の中には、生に飽いて自ら命を停止する者も一定数はいたが、なにせ 死なないものだから、出生率低下とあいまって、まるで脱皮するみたいにその比率は上昇 の一途を辿っていた。
- 《寿命の廃止》を受ける条件の一つとして、規定の資産額が必要であるとされている。 《寿命の廃止》を受けるためには、技術を管理する財団が定めるあのファンドにそれを信 託しなければならない。あのファンドが資産を運用し、出た利益を預けた者に配当する。
- 自動自己アップデート機能を持つAIであるあのファンドは絶対に運用を失敗しない。 「最後の人間」は必ず生活に十分なだけの配当を受けられる。 ソレルド・ヤッキ・ボーが 「最後の商人」を名乗り、 商売をしているのはだから、 遊戯に過ぎない。
- 僕にしたって、この商談は一種の遊戯なのかもしれない。 望むなら永久に生きることが でき、人類に起こった幸福も不幸も五感で正しく味わえるアーカイブへの接続権も与えら れている。でも僕はそれでは飽き足らず、やむにやまれぬ想いで、 ソレルド・ヤッキ・ボ の持ってくる商品を待ちわびているのだ。
- 「とーほーよーじょーに、さる」
ゆっくりと田久保紀子はそう繰り返す。 それでも、その言葉の意味がわからない。シー ツにくるまったまま彼女は、うつ伏せに体勢を変えて、サイドボードに置いてあるホテル のロゴが入ったメモ用紙を一枚取った。そしてそこに何かを書き付けた。 右上がりの細長 い書体が、暗めのランプに照らされ、奇妙に浮き上がるように見える。
東方洋上に去る
「これはなに?」
「遺書」
「遺書?」
- しかし心の奥底の本音を自分が把握できているとは限らない。いや、むしろできていな いのが普通なのかもしれない。
- そう一息に言って、彼女の唇には言葉の予兆みたいな震えが残った。いつもそれはすぐ に静まるのだけど、今日は違った。
「多分、今やっているプロジェクトも成功して、結構なボーナスが入ると思うんだけど、」 僕は細かな震えをはらんだまま動く彼女の唇を見ていた。「正直言って何のために稼いで いるのか、全然わかんない。なんだか自分の人生じゃないみたい」
- 「申し訳ないね、ニムロッド。 今日の品物はないんだ。 世界中を探し回ったんだが、駄目 な飛行機はもうどこにもない。先月の『パーシヴァル P.74』、あれで最後だ」
「だって君は最後の商人だろ?君に用意できないものはないって、前に言っていたじゃ ないか」
「ああ、もちろん。 この惑星上にあるものなら、最後の商人である僕に用意できないもの はない。ただね、ニムロッド、申し訳ないが、どこにもないものを売ってあげることはで 「きないよ」
- 「いいか、ニムロッド、よく聞いてくれよ。人間にはもう駄目な飛行機は造れない、と 言ったがね、もちろんそれは嘘ではないが、そもそも、もう普通の人間なんていないん だ。人間はすべてが最後の人間になるか、あるいは死んでしまった。そしてその最後の人 間たちも個であることをやめた」
- 「個であることをやめた? どうして?」
「生産性が低いからさ。生産性を最大限に高めるために彼らは個をほどき、どろどろと一 つに溶け合ってしまった。 個をほどいてしまえば、一人ひとりのことは顧みずに、全体の ことだけを考えればいいからね。より強く高く長く生き続けたいという欲望を最大限達成 できるからね。 情報技術で個の意識を共有し、倫理をアップデートしてしまえば、その個 を超越した価値基準に体の形状をあわせることへの躊躇いなんてなくなるし、体の在りを変えるなんて造作もないことだ。それだけじゃない、どろどろに溶け合った人類は、あ のファンドと一体になったんだ。それが最も生存確率が高い在り方だからね。その結果と して実際、全体としての計算能力を飛躍的に向上させた人類はこの世の理のすべてを知 り尽くし、自分たちのことを人類ではなくて、別の呼称で呼び始めている」
- 「すべてを知った以上、すべてができるようになるのは時間の問題だ。一個に溶け合い、 もはや経済も政治も芸術もすべてを司るあのファンドと一体となった人類は、これから先 のことだって、精緻に予想しているんだ。彼らはまずは個の境界を取っ払ったわけだけ ど、次の段階ではさらにもう一つの境界を取っ払うことになることもわかっている。それ がどういった状態なのか、未だ人間である僕にはわからない。でも今日を限りで僕も彼ら と溶け合うことになるから、きっともうすぐ理解できるんだろう。店じまいだよ、君だっ てもう欲しいものはないんだろ? でも君の資産については安心していいよ。ビットコイ ンには価値があるんだ。人類そのものであるあのファンドが君のビットコインの価値を担保し続けてくれるはずだから。 価値がある、価値がある、価値がある、そう記載し続けてくれるはずだから」
- あのファンドが保証し続けてくれる、僕がつくりあげたビットコインの価値は、この塔みたいにうずたかく積み上がっている。 だから僕は何でも買えるはずなのに、ビットコイ ンは何とでも交換できるはずなのに、この世界にはそれと交換すべきものがもう何もな。
「君に駄目な飛行機を売り尽くすことで、最後の商人である僕の願いは叶った。欲望がな くなってしまった僕はもう人間を続けてはいられなそうだが、ニムロッド、君はどうなん だ?何よりも高い塔が建ち、その屋上に駄目な飛行機が揃った。君の願いももう完璧に 叶ったのではないか? それでも君はまだ、人間でい続けることができるのかな?」
- 資本主義社会においては、資本さえあればたいていのことは叶う。しかし、子供の頃か ら思い描いていた塔を建てるためだけに蕩尽的につぎ込めるだけの資本を築くことなど、 そうはできない。 友人の名前を借りて、その名前を最小単位にした通貨を作ってみたのは、駄目で元々という気分がまずはあった。それが現実に価値を帯びるなんていう夢物語 のような展開にでもならない限り、それだけの資産を保有するのはまず不可能だ。 しかし 予想に反して、ビットコインと名づけた僕の仮想通貨は、乱高下を繰り返しながら、多く の物の時価総額を抜いていった。 ダイヤモンドの総価値を抜き、金を抜き、 ユーロを抜 き、ドルを抜いた。それらに価値があったのは、それを欲しがる人間がたくさんいたから に過ぎない。誰も欲しがらなければ、それはただの石ころであり紙切れだ。 国家に支えら れた通貨は、国家がなくなってしまえば価値を維持することもできない。だが人間である からには欲望があって、その向け先はいつだってなくてはならない。
- 根拠とされていたものが明確であればあるほど、それが無根拠であると暴かれた時の価 値の落差が激しかった。 ただ存在すると書き付けられた僕のビットコインは、元々根拠が 無に等しいからこそ、無根拠であると暴かれたその他の価値を吸って膨れ上がっていくこ とになったみたいだ。いや、根拠がないと感じるのは僕が一個の人間に過ぎないからかも しれない。人間たちの欲望を吸い上げて、今では人類と一体になったというあのファンド にとってみれば、ビットコインを買い支えるだけの自明の根拠があるのかもしれない。
- いずれにしろ、おかげで僕は、ビットコインと引き換えに子供の頃から思い描いていた 高い塔を手にすることができた。 そして、今もまだ莫大な資産が残っている。
だが、なぜだろう? その塔を手に入れてから、僕の右目からは涙が止まらなのだ。駄目な飛行機コレクションを始めるまでは。そしてこれ以上駄目な飛行機をコレク ションできないことを知ってから、右目からはまた涙が流れ出している。 ソレルド・ヤッ キ・ボーがしたように、人類の営みに則って全体に溶けてしまえば、この涙もなくなるだ ろう。それでも僕は人間の王だから、最後まで人間であることをやめたくなかった。
- 僕は駄目な飛行機 No.4 「コンベア NB-36」 にそっと触れる。 原子力を動力に使ったた めに放射線から守るシールドが必要となり、コックピットだけで22tもの重量になったア メリカ産の駄目な飛行機。 その隣には、同時期にソビエト連邦で開発された、同じく原子 力動力を持つ「Tu-119」 を飾ってある。 もっとも 「Tu-119」 は「コンベア NB-36」 ほ どの重量はない。 「コンベア NB-36」 とは違い放射線からパイロットを守るシールドを 使っていないためだ。その分軽量化を実現しているが、もちろん放射線から守られていな いパイロットは皆搭乗から数年内に死亡している。本当に駄目な飛行機だ。 少し考えれば そうなることくらいわかりそうなものなのに。
- 「ねえ、君たち、君たちは、そんなんでちゃんと飛べると思ったの? そんな不格好なな りで、ちゃんと安全も考えずに、設計ミスばかりして、ねえ、そんなんで、本当に飛べる と思ったの? そんな行きあたりばったりで、ちゃんと飛行機として成立すると思った の?」
- 僕の左目からの涙が彼女の胸にぽたぽたと落ちている。いつもの感情のない涙だ。
- シーツ越しの彼女の体を眺めながら、僕は彼女とその胎児が受け た遺伝子検査について考える。母体が自然に生きればあとどの程度生きられるのかまでわ かるらしい。けれどその情報は母体には伝えられない。知るべきではないから、 伝えな い。当人には伝えられない事実が、ただそこにごろりとあって、そのまま朽ち果ててい。
- 「なに?」
「ニムロッドの話。 リハビリなのかなんなのかわからないけど、 彼が書いてよこす小説の 話」
多分SFと呼んでいいんだろう。高い塔に住むニムロッドの話。 人間の王であるニム ロッドは、他の人間たち全員が一つに溶け合った様子を高い塔の上から眺めている。一塊 になった人間たちは「人間」や「人類」ではない別の名前を自称し始める。 すべてのこと を知り尽くしてしまった彼ら。 いや、我ら? 既に手に余る情報が僕たちにも与えられて いる。わかったからといって、どうすることもできない。だったら見ない方がいい。
- 「いや、見ないわけにはいかないでしょ」 彼女が僕を見ている。 水分の多い目が部屋の光を跳ね返している。 「だってあるんだからそこに。 あるものを見ないのは間違っている。動物じゃないんだから」
「手に余るんだよ。君もさっき言ってた」
「だったら手を大きくしないと。 それを受け止められるように」
そして、できることがどんどん増えていって、やがてやるべきこともなくなって、僕た ちは全能になって世界に溶ける。
「すべては取り換え可能であった」という回答を残して 「しょうがないじゃない。それが本当のことなんであれば」 ダウンライトが彼女の顔に陰 影を作る。 顔の右側は光が鼻梁を縁取って白く、反対は暗くて表情が読み取れない。「そ れともまさか君、自分が取り換え不能だとでも思っているの?」
- 調べてみたところ、 新たな仮想通貨を作るのは、割合に簡単にできるようだった。 ビッ トコイン自体がそもそもオープンソースで、ソースコードを自由に使うことができるか ら、それをベースにして新たな仮想通貨を作ることができる。プログラミングに詳しくな い人でも、簡単な操作で新たな仮想通貨を作れるアプリもあるらしい。しかし、作ったか らといって、誰も欲しがらなければ価値は生まれない。欲しがってもらうためのアイデア こそが重要で、僕が思い付くようなことはきっとどこかの誰かが既にやっているだろう
- 僕からはスクリーンに映るニムロッドと iPhone 8 の中の田久保紀子が見える。ニム ロッドからはスクリーンに映る僕の映像と、その映像の中の iPhone 8、さらにその中の田 久保紀子が小さく見えている。 田久保紀子にも僕と、スクリーンに映るニムロッドが見え ている。ばらばらの場所に我々はいるが、一堂に会してもいる。サトシ・ナカモトの涙が 繋いだ縁、とニムロッドが言って、ホテルの部屋でワインを飲み始めた田久保紀子はへら へら笑った。
- 僕とニムロッド、 僕と田久保紀子、それぞれ一対一の関係においては、特別な関係を取 り結べていたような気がしていた。 いや、それも本当はそうではなくて、誰もがそんな風 に思っているだけなのかもしれない。 自分と誰かの特別な関係性。 そもそもそれが幻想であるからこそ、三人以上いると、客観的な目が自分の中にも醸成されて、ありがちな関係 性であるように思えてくる。 実際に田久保紀子といる時に僕も、田久保紀子だけではなく て、田久保紀子に似た女のことをつい考えてしまっているのだ。それは過去になにがしか の関係を結んだ女であるし、同時に未来のいつか、関係するかもしれない、架空の誰か だった。
- けれど、ニムロッドはどうだろう? ニムロッドに似た男はいただろうか?
- 「ニムロッドって、メールの最後に書いてる署名もそうですよね」と話を振った。 「あ れって、塔を建てようとした英雄の名前ですよね?」
画面に映る神経質そうな三十代後半男性、荷室仁は一瞬ピクリと眉を動かす。 「建てよ うとしていた?」自問するように、あるいは言葉の響きを確かめるみたいに彼は小さな声 で言って首を傾げた。
- ニムロッドを映すスクリーンから斜め四十五度くらいの位置に、どこにいるともしれな田久保紀子を映す iPhone 8 がある。その中の田久保紀子と僕を拾うマイクとカメラが この部屋にあって、その情報を暗号化してニムロッドに送っている。僕たちは確かに会話 をしているが、僕たちの会話は暗号化されたデータのやり取りそのものだ。 このやり取り そのものであるデジタルコードもどこかのサーバーに書き込まれているのだろうか? あ るいは技術に還元しえない、世界そのもののどこかに記載されているのだろうか?
- 「あと、もしかしたら、僕がまだ金庫に直行させてもいいやと思える文章が書けていない のかもしれない。人類の営みから逃れきれてはいないのかもしれない」
- ニムロッドは一瞬戸惑いの表情を見せる。それから、すぐに気を取り直したように小さ く笑った。 「飛行機の数え方は台じゃなくて、機。駄目な飛行機が一機、駄目な飛行機が 二機、駄目な飛行機が三機。それに結構高いよ」
「高いって言っても、世界第四位の製薬会社ほどじゃないでしょ?」
- 大口顧客の定期メンテナンス業務を午前中に終えて、デスクに座ってメールを処理して いると、グループワーキングツールに新しいメッセージが入った。 顧客から預かっている サーバーの一つが停止した旨の連絡だった。止まったのは二拠点サービスの東京側のサー バーだった。 Slack での反応を見る限り、すぐに動けるのが僕だけのようで、名乗り出て、 サーバールームに様子を見に行く。指定のサーバーに繋がったモニターをつけると、完全 に固まっているのがわかる。いわゆるフリーズの状態で、こうなってしまうと、もう再起 動するしかない。一度電源を切って、再び電源を入れ、PCに残った履歴を調べて原因を 探ってみたものの、再起動してしまうと、残っている痕跡が限られて原因の特定まではい かない。
- 田久保紀子が無言で天井を見つめている時、僕は勝手に彼女が考えていることを想像し てしまう。たいていは「嫌なこと」を思い出してしまう彼女のことを。けれど、あの時 は、ニムロッドと僕と田久保紀子、その三人でした会話のことを思い出しているのだと想 像していた。いや、 単に僕が田久保紀子の横顔を眺めながら、その時のことを思い出して いただけかもしれない。
- 一通り話し終えると田久保紀子はニムロッドに連絡先の交換を申し出た。LINEのIDを登録し合った後で田久保紀子は、金庫に直行させても良いと思える文章が書けたらそ れを読ませてほしいとニムロッドにお願いした。ニムロッドはそれに応えなかった。黙っ たままおそらくは iPhone8の中の小さな田久保紀子を見ていた。だんだんと気まずく なってきて、僕は取り繕うように適当に会話を結び、まずはニムロッドの回線を切り、 田 久保紀子と少し話してから、 iPhone8の回線も切った。 彼ら二人を繋ぐきっかけになった 僕の涙だけが、まだ流れ続けていた。
- 「君のこれ。感情のない涙。泣くんだったらみんなこんな風に泣けばいいのに。 少なくと も私より先に泣くなんてあり得ない。 私に判断を押し付けておいて、勝手に泣くなんてあ り得ない。泣く権利なんてあいつにはなかったし、私にだってなかった。たぶん大抵の人 間にそんなのはない。それは罰でもなんでもない当たり前のこと」
- ふと、塔の上に取り残されたニムロッドのことが頭に浮かんだ。 彼からのメールはあの 鼎談以来途絶えたままだ。 彼の姿を頭の片隅に浮かべたまま僕は一人サーバーたちの働き をサポートし続ける。その内に田久保紀子がニムロッドを見た時の視線が頭に浮かび、そ の像と重なった。あの時、あの沈黙を気まずく感じたのは僕だけだった。当時は思いつき もしなかったけど、なぜか今になってそのことがありありと実感される。僕一人だけが言 葉を乱されていて、あるいはずっと昔に乱されたままでいて、彼ら二人が共有しようとし たものを僕は見ることができなかった。
- ぶんというファンの音に混ざって、僕の叩くキーボードの音がかたかたと響く。 無機質 なサーバーたちがコードに則って演算を続け、世界に機能を提供している。 サーバールー ムには僕の他に誰もいない。今この瞬間、世界から誰もいなくなっていたのだとしても、 きっと僕は気づかない。
- 駄目な飛行機コレクション No.9 「桜花」、そのコックピットの中に僕はいる。
一晩中下を見続けたから首筋が妙に痛い。 ソレルド・ヤッキ・ボーが去った後も、僕は 塔の上から一晩中地表を見下ろしていたのだ。 けれどそこははるかに遠くて、どろどろと 溶け合って一塊となったという人類の姿はやはりわからなかった。 塔の上から見えるの は、地球そのもの、地面と海、そして視界をところどころ遮る雲だけだった。
- すべての駄目な飛行機を集めきった僕は、もう何をしてよいかわからなくなった。ただ 東の空に昇り始めた太陽を見ていると、僕はそこに向かわなければならない気がした。そ して僕は駄目な飛行機の中から一機を選び、それに乗り込んで、飛び立ったのだ。
- 太陽は正面にある。 僕の他には、誰もいない。人間の王である僕以外は誰も。 帰りの燃 料を積むことができないとの駄目な飛行機ならば、あの太陽まで辿り着くことができるだ ろうか?
- ねえ、ナカモトさん、僕は何よりも高い塔から飛び立ったわけだけど、もともと僕に とっての塔はさ、小説なんだと思っていたんだ。これは前に伝えたことがあったかな。 な かったかな? まあ、どっちでもいいことだね。 僕が言葉を紡いでいくことで、人々の精 神に何かを書き込む。遺伝子に誰かが書いたコードみたいに、ビットコインのソースコー ドみたいに、僕が誰かの心に文字を通じて何かを記載することで、それが世界を支える力 になる。そう思っていた。でもそうではなかった。いや、あるいは僕に才能がなかっただ けかな。
- だとしてもさ、ねえ、ナカモトさん。そんな衝動を持っているのは、きっと僕だけじゃ ない。それは、誰もが心の奥底に抱えている根源的な衝動に違いない。そんな衝動がきっ と空っぽな世界を支えているんだ。僕よりずっと才能のある芸術家だって、それが空っぽ だと知っていて、だからこそ、そのことを表現せざるを得なかった。 表現するだけの気力 が尽きてしまったら、あとは死ぬしかなくなるものな。 未熟なロックスターが二十七歳で自殺するように。たくさんの傑作をものした老境の作家が自ら死を選ぶように。
- 小説は書くのを一旦やめてもさ、ふと気が付けば、僕の頭の真ん中に真っ白な塔があっ て、それは空を突き刺しながら僕を見ていたんだ。
- 僕はね、小説を書きながら、 これまでずっと未来のことを考えてきた。 先々のために今 何をやるのが重要なんだろう? って。だけど今思うのは、予想されうる未来は今と同じ か、あるいはそれ以上に人間を縛るということだ。
僕たちは縛られている。僕は縛られている。だから僕は、ただ一人塔の上に残った今、 この最後の時、駄目な飛行機に乗って、太陽を目指すことにしたんだ。
それらが、どこでどう繋がっているのかはわからない。別に繋がってなんていないのか もしれない。僕は駄目な人間だから、一番終わりまで残ることになった一番駄目な人間だ から、そんな僕の考えもすべてはただの勘違いかもしれない。
- だけど、ナカモトさん、君は気にかける必要はないよ。 それに気にかけることもできな い。だって、君は最後のこの章を読むことはないから。
サリンジャーだよ。
- ただどろりと文章があるんだ。 意味なんて知らない。 展望があるかどうかも知らない。 僕は駄目な人間だから、そんなことは考えない。僕と同じ駄目な人間が皆そうであるよう
.....
に、この文章はただ、 ごろりとここにあるだけなんだ。
- と、そんなことを考えていると、左の視界、その下側が波打つように曇った。反射的に 上を向く。すると雲一つない空の低い位置に飛行機が白い線を引きながら飛んでいるのが 見えた。感情的な昂ぶりが伴わないこの涙が流れるたびに、僕はもう連絡が取れなくなっ 田久保紀子とニムロッドのことを思い出す。 僕の頭の中で彼らとこの涙が結びついてい るらしい。
- 涙の量が普段より多い。 上を向いているのに、左目から涙があふれ、それは頬の温度を 奪って時間経過そのものみたいにぽたぽたと落ちていく。僕は飛行機の白い影を眺めなが ら、そうだ、僕の仮想通貨の最小単位を nimrod にしてはどうだろう、と思い付く。高い 塔みたいに価値を積み上げる僕の新しい通貨。 いつか雲を突き抜けてその塔が高くそびえ たならば、その最小単位が顔を出す。 nimrod、塔の上に最後に残った人間、人間の王。 僕は上空を向いたまま自分の思い付きにしばしとらわれる。それからふと我に返ると、 飛行機の影はすっかりなくなっていた。
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